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写真集「シュマリナイ」を追加しました。写真集「シュマリナイ」

私と朱鞠内

私は、朱鞠内で生まれ17才(高校2年生)の7月までここで過ごしました。いわゆる故郷です。生まれたときは父親が徴兵され留守だったので、母親の実家のある下川町でお産をしたと聞きました。戦後の何もないときでしたし、特に朱鞠内は米の取れないところでしたので、イモとカボチャとニシン(あの山の中でも深名線のおかげもあって、たくさん手に入れることができ、各戸で塩漬けにし、冬の貴重なタンパク源でした)で育ったような気がしますが、周りは農家でしたし、また母親も一家を十分養えるくらいの野菜を作ってくれましたのでひもじい思いをした覚えはありません。麦飯(麦混じりのご飯)ながらご飯が欠けることはあまり記憶にないのは、きっと門徒の皆さんのおかげだったのだろうと思います。
冬は長かったけれど、子どもにとっては良いところでした。夏は川でよく遊びました。近くに三本も川がありましたから。釣りだけではなく、砂遊び、イカダ遊び、できる遊びは何でもしました。イカダから落ちておぼれかかったこともありました。現におぼれて亡くなった子どももいたようです。冬は、もちろんスキーにソリ遊び、雪合戦、冬山探検、一番すごいのが堅くしまった雪でいわゆる『かまくら』作り、あんな小さいものではなくちょっとした砦状の雪の城(中は迷路あり、部屋あり)を作り学校から帰ると出たり入ったり修復したり、雪まみれになって遊んだものです。
小中学校は地元の学校に、小学校は近かったのですが、中学校は遠く2キロほどを歩いて通いました。高校は、名寄へ汽車通学でした。朝は、始発6時15分くらいの『レールバス』(分かりますか?)で約1時間立ちっぱなしでした。母親は朝4時起きで(我が家ばかりではないのですが)暖かい弁当を毎日作ってくれました。出る前に朝食を食べているのですが、すぐに腹の減る年頃、学校に着くなりまだ暖かい弁当をよく食べたものでした。その時の昼食は学校の購買でパンを買って食べました。
しかしこの頃には、朱鞠内は鉄道の機関区がなくなったり、木材が取れなくなったりして人口が激減、飯を食っていけなくなったので、一家して札幌へ出ました。それが高校2年の時でした。それから、2年後、朱鞠内は大火にあい、中心部の大半が消失してしまいました。我が家のあったところは幸い火事にあいませんでしたが、ある意味で良いタイミングだったのでしょう。
朱鞠内のことは書き始めたらいくらでも書くことはありますが、取りあえず、今回はここまで。

「朱鞠内」の語源(山田秀三著『北海道の地名』から)

添牛内市街から約8キロ雨竜川を上がると朱鞠内の市街があり、西の山からの朱鞠内川が市街の北を流れている。アイヌ時代には日本海の羽幌から山越えしてこの川筋を下ったようで(今は道もない)、松浦武四郎の資料によく出てくる。
永田地名解が「シュマリ・ナイ。狐川」と書いて、その後はこの説が踏襲されてきたが、彼は雨竜には入らず、「前田技手に地名を聞き同氏のの測量地図に依りて訳を下せり」と書いた。つまり音に合わせてアイヌ語をつけただけだった。
松浦氏はこの川を西蝦夷日誌では「シュマウシベツ」、再航石狩日誌では「シュマサンナイ」、燼心余赤では「シュマンベツ」と書いている。これらは石多い川、石流れ出る川、石ある川と解される。どれもsyuma(石)がついている。それから考えると、朱鞠内は、シュマ・リ・ナイ(石・高い・川)ぐらいの呼び名が残ったのではないかと考えてきた。狐の多い土地なので、あるいはそれをシュマリ(狐)に付会して考えたことはあり得ることである。

※朱鞠内川が出てきたので、関連して同誌から朱鞠内湖、ウツナイ川を引用させていただく。なお、市街地と二つの川、二つの湖の位置関係は、下記の地図リンクで確認してください。

<朱鞠内湖>
雨竜川は長いパイプのような川であるが、朱鞠内の三股から上は、手の指を拡げた形に上流諸川が拡がっていて標高の高い大盆地を作っていた。その水を三股にダムを作ってせき止め、標高の低い天塩川の風連に落として発電する巧妙な計画を溝口潔夫という青年技師が着想し、藤原銀次郎さんが中心となって実行に移し、昭和18年に完成したものだという。
これで大きな朱鞠内湖が出現したのであるが、その下の雨竜川の水量は激減したのだという。ポンカムイコタンやポロカムイコタンもそれで昔の姿を失ったのではなかろうか。

<ウツナイ川>
明治31年5万分図で見ると、東側のプトゥカマペッ(雨竜川本流)と西側のウッナイが三股で合流している。ウッナイは流長29.7キロで本流と匹敵するくらいの長い川である。現在はその下流部にダムができて宇津内湖と呼ばれ、朱鞠内湖の一部のような機能をしているようである。
ウッナイは北海道内各処にあるが、どうもその意味が分からない。言葉はウッ・ナイ(ut-nai 肋骨・川)であるが、それが現実にどんな地形を意味するのか、ずいぶん現地を見てきたのだがまだ腑にに落ちない。後日の研究を待ちたい。多くは沼に繋がっている小川であるが、このウッナイは長流である。あるいは元来はその最下流の小川の名でもあったのか。

朱鞠内の地図

 下のURLをクリックしてください。国土地理院の地図へ移ります。
  http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=142.16747222205&latitude=44.303403480779

ギャラリー

朱鞠内ダム

雨竜第一ダム(うりゅうだいいちダム)は北海道雨竜郡幌加内町、一級河川・石狩川水系雨竜川最上流部に建設されたダムである。
北海道電力株式会社が管理する発電専用ダムで、堤高45.5メートルの重力式コンクリートダムである。ダムよりも人造湖である朱鞠内湖(しゅまりないこ)の方が有名であるが、この朱鞠内湖は湛水(たんすい)面積(ダム湖の面積のこと)が日本で最も広い人造湖である。戦時中である1943年(昭和18年)に完成して以降、この記録は未だに破られていない。







旧深名線と旧朱鞠内駅

深名線(しんめいせん)は、北海道旅客鉄道(JR北海道)/日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道深川市にある深川駅で函館本線から分岐し、雨竜郡幌加内町を経て名寄市にある名寄駅で宗谷本線に接続していた。
営業係数は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、赤字83線や特定地方交通線の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、国鉄分割民営化後に並行道路の整備が進んだことから、1995年(平成7年)9月4日に廃止された。
※写真をクリックしてください。大きい写真を見ることができます。




旧光顕寺

光顕寺(こうけんじ)は、北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内にある真宗大谷派の寺院。現在は廃寺となり、旧本堂は「朱鞠内旧光顕寺・笹の墓標展示館」となっている。

1932年(昭和7年) - 「真宗大谷派三股(みつまた)説教所」開設。
1932年(昭和7年) - 現在地に本堂、庫裏を建立、「真宗大谷派光顕寺」寺号公称。
1935年(昭和10年) - 朱鞠内周辺の鉄道工事(名雨線)開始。タコ部屋労働による工事犠牲者が続々と寺に運びこまれる。
1935年(昭和10年) - 雨竜ダム建設工事開始。日本人、朝鮮人強制労働犠牲者が寺に運ばれた。この時の犠牲者位牌が寺に残されている。
1943年(昭和18年) - ダムの完成により、往時には数千人を数えた朱鞠内の街も人口減少を迎える。(右へ続く)

冬の旧光顕寺

1964年(昭和39年) - 朱鞠内大火。100戸を超す家屋焼失により急速に人口を減らす。多くの信徒が離脱し無住の寺となったため、旭川市内同派寺院の兼務となる。
1976年(昭和51年) - 寺の本堂から70基余りの工事犠牲者の位牌が見つかる。
1980年(昭和55年) - 発掘調査により、付近の墓地周辺の笹薮から工事犠牲者の遺骨が複数出土。引き取り手のない遺骨が光顕寺に安置される。
1991年(平成3年) - 本堂取り壊しを免れ、歴史資料館「笹の墓標展示館」となる。この際に本堂建物は宗教法人から分離。
1999年(平成11年) - 改修を経て、青少年研修・宿泊施設「旧光顕寺・笹の墓標展示館」となる。空知民衆史講座が管理。




旧朱鞠内駅跡のバスターミナル

廃駅後しばらくは駅舎がバス待合室として使われ、相対式ホームも残っていましたが、2000年(平成12年)夏に跡地の再利用として全て解体され、跡地は朱鞠内コミュニティー公園として生まれ変わりました。一角のバスターミナルのロータリー内に駅名標とレールの一部が移設されています。

旧朱鞠内駅

この写真は、深名線が廃止になる年、1995年6月に撮ったもの。





旧朱鞠内駅

左と同じ。
私は、このとき旭川に転勤で住んでおり、自動車で峠を越えて何十年ぶりかで訪れました。






旧湖畔駅

深名線朱鞠内駅から名寄に向かって最初の駅。無人のいわゆる停留所です。私はここで毎日の通学に乗り降りしました。
湖畔という名称は、朱鞠内湖のすぐ近くということから、また朱鞠内湖を訪れる人の利便のためにつけられたのだと思います。




旧朱鞠内小学校

この「旧朱鞠内小学校」は、どちらかというと旧深名線湖畔駅に近い場所に、昭和32年10月、道内5番目の円形校舎として改築されました。しかし、人口の減少から昭和61年3月31日に閉校となり、朱鞠内の中心地旧朱鞠内中学校跡地に移転しました。この旧朱鞠内小学校は、現在は「ふれあいの家まどか」という宿泊施設として再利用されています。
この円形校舎は、私が小学6年生の時の完成し、3学期のみ通学しました。



朱鞠内(旧光顕寺付近)

この写真は、朱鞠内旧市街と呼ばれる地域を撮っています。朱鞠内は、朱鞠内湖畔に近い集落を旧市街、朱鞠内駅を中心とする集落を新市街と言っていました。上の写真「旧深名線と旧朱鞠内駅」はその新市街を撮っています。
この写真は、鉄道がなくなって整備された名寄市、士別市、風連町などへ行く旧市街を見渡すことのできる小高い山の中腹を通る道路から撮ったものです。

朱鞠内湖畔

朱鞠内湖は、湛水に伴い入り組んだ複雑な湖岸や大小の島が誕生し、周囲の森林とも相俟って、さながら天然の湖の様相を見せています。
1974年に湖周辺は朱鞠内道立自然公園に指定され、カヌーやボート、釣りをする人の姿もみられます。「幻の魚」とされるイトウがまれに釣れ、冬季間はワカサギ釣りでも賑わいを見せています。

雨竜川源流

写真では分かりませんが、朱鞠内湖やウツナイ川の説明に出てくるいわゆる『三股』の名前のもととなった場所です。ここで、朱鞠内ダムから流れてくる川と朱鞠内川、ウツナイ川が合流し、雨竜川となって南下しています。
昔は、この合流部にはたくさん魚がいて、よく釣りに行ったものです。大雨の後などは、ニジマスの大きなものが獲れました。私には無理でしたが。だが、春には婚姻色(赤い条線がはいる)のウグイが入れ食いで釣れました。

朱鞠内の歴史(空知民衆史講座ホームページから)

 朱鞠内は1913(大正2)年から翌年にかけて、御料地(皇室所有の土地)の解放にともない、岐阜県から団体入植したのが始まりです。ようやく開いた土地にイナキビ・トウモロコシを植えることから始まり、砂金掘りを副業にした人も多かったといいます。
 1928(昭和3)年、ブトカマベツ川沿いに雨竜電力株式会社の事務所が建てられ、水量調査が始められました。住民には、何も知らされないまま、ダム建設の準備が進められていきます。
 1932(昭和7)年に幌加内から朱鞠内までの鉄道(幌加内線)が開通し、続いて朱鞠内〜名寄間(名雨線)の鉄道工事が始まります。ダム建設予定地での木材の切り出しが始まるとともに、朱鞠内は人口の急増地となります。1934(昭和9)年には、幌加内にもなかった電灯もついたのです。 (右の写真は『冬の旧朱鞠内駅』)

光顕寺の創立
 光顕寺は初期の入植者の山口さんなど岐阜県出身者の多くが熱心な真宗信者だったため、1932(昭和7)年に「真宗大谷派三股説教所」として創立されました。最初は信者宅を仮本堂として始められましたが、1934(昭和9)年、深名線鉄道沿いの現在地に本堂(光顕寺)が建立されました。
 1935(昭和10)年、朱鞠内〜宇津内間の鉄道工事が始まりました。労働の担い手は主に「タコ部屋」労働者でした。厳しい労働の中で次々と出た鉄道工事の死者は、光顕寺に運び込まれました。
 1937(昭和12)年には日本人41人、朝鮮人2人の43人もの犠牲者が出たのですから、月平均4人もの死者があったことになります。
 1938(昭和13)年に雨竜ダム工事が始まってからも、光顕寺は死者をとむらうお寺でした。檀家(寺の信徒)の人の証言によると、濡れたままの遺体が次々と運び込まれ、本堂の畳は腐ってしまい、床が抜けたといいます。

戦後の朱鞠内
 ダム工事(1938〜1943年)の最盛期には戸数が400戸を越え、朱鞠内の街には飲食店、カフェ等が軒をつらね、ダム工事関係者を入れると数千人の人口を抱える街だったのですが、1943(昭和18)年のダム工事の終了とともに人口が減る時代に入ります。
 1964(昭和39)年、朱鞠内は大火にみまわれ、一挙に116戸を失いました。高度経済成長の時代とともに過疎化の波は朱鞠内をおそいます。
 昭和30年代、光顕寺は旭川の聞光寺の兼務寺院となり、わずかになった朱鞠内在住の檀家の手で守られました。
 1976(昭和51)年9月、光顕寺に保存されていた白木の位牌70余が鉄道工事・ダム工事の犠牲者のものであったことがわかりました。光顕寺の新しい歩みが始まります。
 現在、「光顕寺本堂」は光顕寺から切り離され、朱鞠内歴史保存委員会の手で、犠牲者の追悼(死者の生前をしのび、その死をいたみ悲しむこと)と学習の場として保存活動が進められています。

深名線と名雨線
 1995(平成7)年9月3日、また北海道から鉄道の灯がひとつ消えました。地域の人々の生活を支えてきた深川〜名寄間121.8kmを走っていた深名線がバス転換となったのです。
 名雨線は、そのうちの朱鞠内〜名寄間の43kmの区間をさします。深名線の建設工事は「北海道鉄道百年史」によれば、1922(大正11)年からまず深川〜多度志間で始まりました。工事が完了した区間から営業を開始する形で北上して、1932(昭和7)年には朱鞠内までの78.8kmか開通となりました。
 残る朱鞠内〜名寄間が1941(昭和16)年に全面開通となり、深川〜名寄間がつながって、深名線が完成したのです。

さよなら深名線

 30年前の2倍くらい(いや多分それほどでもないんでしょうが、私にはそう感じました)にも繁って、うっそうとした木々に囲まれた小さな空間の中から、伊藤多喜雄の迫力あるソーラン節が聞こえてきます。先ほどまでは、10名の憎侶によるしめやかな読経が、これは30年前と少しも変わらない小さなお寺の中から流れていました。

 今日は9月3日(日)、ここは幌加内町朱鞠内(しゅまりない)の光顕寺 (「こうけんじ」。いや、もう廃寺になりましたから「旧光顕寺」と言うべきですが)の境内です。いまここでは、今日をもって廃線になる深名線の長い歴史を偲びながら、深名線と朱鞠内ダム (この光顕寺から自勤車で5分とかからないところにあります)の建設エ事で亡くなった日本人や朝鮮人の方たちの追悼法要が行われているのです。伊藤多喜雄は、その追悼コンサートを好意で開いてくれているのです。 (右の写真は廃線後の『旧湖畔駅』跡)

 深名線は、建設開始から七十数年、全線開通から五十四年の歴史を今日閉じようとしています。深名線は、その周辺からとれる木材の運搬で、一時は北海道でも有数の黒宇線だったそうです。それが、木材の枯渇とともに輸送量が減り、ご多分に漏れずの過疎化で住民も減り、私が利用するようになった頃にはすでに日本一の赤宇腺でした。

 私は、この深名線の拠点駅のある朱鞠内で、ダムの近くの今日の会場である光顕寺という浄土真宗のお寺の長男として生まれ育ら、高校2年まで暮らしました。そして、名寄高校に入学しましたから、通学は深名線だのみでした。零下30度の朝、6時18分のディーゼルカー(もちろん1両のみです。それも特別製の小さいやつでレ一ルバスと言ってました)に乗って、1時間強でした。朝は、この後数時間も名寄行きがありませんから乗り遅れは許されません。おふくろは毎朝4時起きで朝食と弁当を作ってくれました。 そして毎朝、列車との競争です。時には、列車に追い越され、それに気がついた運転士が私の駅到肴を待っててくれたこともありました。
 帰りもそうです。列車の本数が絶対的にありませんから、部活も落ち着いてしていられません。吹雪で運休は始終ですから、帰れないこともありました。最高の傑作は、レールバスが吹き溜まりに突っ込んでしまい、男性のお客全員が降りて尻押しをしたことです。ちょっと他では経験できません。

 今日は自動車で来ましたが、先日はお別れ記念でJRが企画した、リゾート列車「クリスタルエクスプレス」で深名線全線を踏破しました。弟に「それは邪道だ。」と一笑に付され納得してしまいましたが、樹木のトンネルの中を線路が曲がっていないのに車体をくねらせながら走るあのサマは深名線そのものでした。冬は雪のトンネルだったことを思い出しました。

 深名線は、中学時代の通学路でもありました。本当の道路は遠回りでしたから、最短距雛に敷設されている線路は、地元往氏の通用路でもあったのです。途中、鉄橋が2ヵ所あり、よく貨物の蒸気機関車に追いかけられたものです。蒸気機関車と言えば、あのトンネルに入ったときの石炭の煙のにおいは、なんとも懐かしい(郷愁を誘う)ものです。

 法要の最中に、列車が光顕寺のすぐそばの線路を警笛を鳴らして通過しましたので帰りがけにその線路まで出てみましたら、JRの社員とカメラを据えた旅行者がいました。聞くとあと10分ほどで列車が通過するとのこと。しっかりと待って、深名線の歴史には決してなかったと思われる5両編成で超満員の列車、さよなら号に大きく手を振ってしまいました。

 旭川に転勤になってはや半年、物珍しさも手伝って、周辺の町を探訪して歩いていますが、10年以上も訪れていなかった我が故郷に、1.時間ちょっとで来られるという手軽さも手伝って、これで3回目の訪問になりました。わずかに残ってがんばっている小中学校の同級生3名にも最初に来たときに会うことができました。すっかり変わった(寂れた)故郷に、妻には、いやあのころは本当に賑やかだったんだと見栄を張っていますが、あっと言う間に通り過ぎてしまうような小さな町に、複雑な思いを抱いてしまったのが本音です。

ついこの間まで、生まれ育ったところへ足を運ぶことなど、考えても見なかったものですが、3回も通ってもまた来ようといつの間にか考えているのは、年のせいでしょうか。伊藤多喜雄は来年も同じ場所でコンサ一トを開くと約束してくれました。深名線はもうないけれども、また来ようと思います。

 さよなら!深名線。

参考:下の文字をクリックしてください。新聞切り抜きと法要次第、リーフレットをを見ることができます。
・半世紀ぶり、納骨の旅
・深名線鉄道工事犠牲者追悼法要

・笹の墓標展示館

さよなら深名線(お別れグッズ)

下の画像をクリックすると、大きい画像が見られます(pdfファイル)。オレンジカードケースは2ページ、切符・切手ケースは4ページありますのでご注意!


       来駅証明書(深川駅)                      乗車証明書


オレンジカードケース


切符・切手ケース