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折々に感じたことなどを書きためてみました

ひ ぐ ま の 徒 然 higuma tsushin

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higumatsusin@yahoo.co.jp

ひぐまのつぶやきからHEADLINE

怒濤の12年

 第二の人生の生き方がほぼ決まったことが影響しているのでしょうか、最近時々50歳以降の「怒濤の12年」を思い出します。それまでも仕事としては怒濤の会社生活でしたが、50歳になってからは転勤の連続という意味で怒濤の12年でした。
 1995年2月、もうすぐ50歳という時でした。たぶん2月早々だったと思います。社長から「ちょっと」と呼び出しがありました。この時、直感で「異動」だなと感じましたが大当たりで、旭川の関連会社への常勤役員としての出向命令でした。即答でお受けしました。ところが、入院していた父親が急激に容体が悪化し、2月下旬に亡くなったのです。結局、そのような状態でしたから父親は転勤のことを知らずに亡くなりました。母親にも葬儀が終わってから知らせました。また、会社の仲間にも辞令(3月1日)が出るまで明かさず、葬儀が終わり辞令が出てからすぐに、旭川へ住居探しに出かけました。今考えても落ち着かない日々でした。
 4月1日に赴任、引越も終え、赴任先の会社での最初の大きな仕事は、社屋建設でした。さっそく土地探しから始め、トントンと建設まで進み、私のアイデアどおりの社屋を建設することができました。この完成までの7,8か月は今考えても楽しい初体験でした。この社屋は、15年たった今もしっかりと建設当時のまま、現役で本社社屋として使われています。
 この会社での3年目だったと思いますが、急病で肺を一つ切除する(と言うより開腹したら肺は1個、すでに消滅していたのですが)手術を受けました。初めて入院して、初めて手術を受けました。入院期間は40日ほど、肺は5個中1個無くなりましたが、完治しました。
 さらに、4年目だったと思いますが、突然母親が亡くなりました。危篤と連絡が入り、大雨の中を高速道路を吹っ飛んで札幌へ行きましたが、母親はすでに息を引き取って自宅に帰っていました。この時の豪雨の中の移動と突然の母親の他界は忘れることができません。
 結局当初の約束より1年長い4年、旭川にいました。この4年は元気な私には長く感じましたが、いろいろ新しい仕事をやった割には、ゆっくり、ゆったりと過ごした4年間だった気がします。今でも、旭川時代は良かったなと思いますし、何よりも旭川の地がすっかり気に入ったことが一番の収穫だったかもしれません。
 札幌に戻ってすぐに、役員に就任したのですが、それから半年強で寝耳に水の「大合併」の指示が東京の親会社から入りました。さっそく、合併委員会の委員に選ばれて、それからは始終東京へ、いつの間にか合併日になり、我が社は「北海道支店」に模様替えとなりました。ところが、翌年4月に、東京の本社へ異動となったのです。札幌滞在はわずかに2年でした。
 2001年4月1日本社(東京)へ赴任。引越はその10日後くらいだったと思います。住居は横浜市戸塚区に借りました。通勤時間、ほぼ1時間、苦になる通勤時間ではなく、これは助かりました。ここには4年住みましたが、夏暑く冬寒い、本州の生活をたっぷり味わいました。この4年間でのプライベートでの大きな出来事は、孫ができたことと犬を飼ったことです。良い時に横浜にいたものだと今更ながら思います。息子が横浜にいたので、始終孫の顔を見に行けたのですから。犬は柴で生後1か月半ほどの時に我が家の家族になりました。引っ越しして1か月もたたないうちにです。つまり孫より早く我が家族の仲間入りをしました。今も元気で、雪が大好きです。
 会社では、営業と維持管理を担当しましたので、この4年間の特に後半は外へ出ることがものすごく多い仕事となりました。記録は1年間の飛行機の搭乗回数96回、毎週1往復していた勘定になります。私は、名古屋はもちろん、大阪までは必ず新幹線でしたから、やはりかなりの数値だと思います。
 東京には定年(役員でしたから毎年定年みたいなものですが、少なくても64歳くらい)までいるつもりでしたが、ひょんなことから、つまり社長と話をしているうちに立候補したことに実質なってしまい、札幌に戻ることになりました。まだまだと思ってノンビリしていた家族はビックリ。
 帰りは愛犬一匹を増やして、自動車でということになりました。そして札幌で2年支店長をやり、さらに2年嘱託で使っていただき、昨年(2009年)3月で退職ということになりました。
 まとめてみると、旭川4年+札幌2年+東京4年+札幌2年(現役分)という怒濤の12年でした。前半の会社生活を転勤なしで過ごしてきたので、余計にこの12年の動きが目立つのかもしれませんが、もう引越はしたくありません。
 これからは、怒濤だなんて死ぬ時に思わない、ゆっくり、ゆったりの第二の人生にしたいのですが、こればかりは自分で決められない人生ですから、その時はその時だ、とは思っています。(2010.4.16)

近況報告(自由人1年を振り返って)

 会社を退いてもう1年たちました。この1年の前半は、ブログ(「ヒグマのひとりごと」)とホームページ(「ひぐま通信」)の充実強化、道立図書館のボランティア参加、市民農園(ホクレン)への参加、そして会社時代にやり残した研修用テキストの仕上げ、MS企画の立ち上げなど今までやりたいと思っていたことに精力的に取り組みました。その他、今までは休みの日にしかつきあえなかった愛犬(柴犬「なな」♂)の散歩に朝夕ほとんど毎回出かけ、小さいデジカメ(CASIO)で散歩コースの花を撮りまくりました。また天気の良い日は近くの公園や原始林へ出かけ、野の花の写真撮影に夢中になりました。今考えてみると結構充実して楽しい初めての長期休暇でした。

 ブログは退社が決まった昨年(2009年)3月中旬ころから始め、日記代わりにせっせと投稿を繰り返しました。写真を必ず入れることを心がけてきましたので、後半は息切れし始めましたが、今でも何とか続いています。昔から日記を付けようと何度も何度も挑戦しては挫折していた私にとっては、驚異的な長期継続ですが、まだまだ続けられそうです。ブログっていうのは便利なものです。きっと手書きではなく、キーボード入力が継続できている一番の要因でしょう。
 ホームページは先日、模様替えしましたが、中身(コンテンツ)の充実が進みません。だんだん、親鸞さんに傾きそうで、それは別だよと自分を制御するのに必死です。何とかがんばってみようと思っていますが、少し性格付けを変えた方が良いかなとは思っています。
 道立図書館のボランティアは、結構楽しかったのですが、これで持病の腰痛を悪化させました。作業はいろいろあるのですが、我が家でパソコンに向かってばかりの私には、図書館に行ってまでもそのような作業は意味がないので、肉体労働を選びました。この作業の良いところは、本のあるところはどこでも自由に出入り可能で、かつ立ち読みや好きな本のありか探しができることです。おかげで作業中に目処を付けておき、帰りにまとめて貸し出しを受けるという楽しいボランティアでした。でも、新聞の縮刷版など重量物の運搬・収納、かつ書架での床に這いつくばったり、高いところは思いっきり背伸びしたりの作業で、だましだまし使っていた腰が急激に悪化しました。秋に長期で横浜へ出かけて休んだこともあり後半はご無沙汰し、先日新年度の更新はお断りしてしまいました。でも、良い経験をしました。道立図書館は予算不足(必要な本が買えないなんて何と情けない政治だとつくづく思いました)でいわゆる新刊の小説類は非常に少なくなっています。しかし、どうしてもほしければ全道の図書館(市町村立)から探して借りることはできますし、幅広く本が揃っていますので使い易い図書館です。雪が溶けたらまた利用再開しようと思っています。
 市民農園は、北広島市大曲にあるホクレンの農園の一部を開放しているものですが、これははまりました。晴れが続いた、雨が降った、風が吹いたと始終心配で通いました。でも素人の悲しさというより勉強不足なのですが、最初の種まき・苗植えで保温処置を一切しなかったものですから、寒さ負けでダメになったり、生育がすごく遅れてしまったり、実なりが悪かったりの状態でした。加えて、肥料不足もあったようです。でも、収穫の時期はやっぱりうれしかったし、最低でも1週間に一度は軽い土いじりができることは本当に体にも精神的にも良いものですっかり気に入ってしまいました。と言うことで、今年も継続をホクレンに先日お願いしたところです。市民農園は大流行のようでどこも順番待ちですが、ホクレンも同様のようで、今年から借りられる農地の面積が昨年の約6割に減らされました(60u=>33u)。仕方ないですね、たくさんの方に参加してもらうためですから。
 研修関係はかなり見直しをして一応テキストは目標を達成しました。ただし、もっと技術的なものを増やしたかったのですが、今のところ挫折したままです。人生の目標が変わってしまったので、研修業「MS企画」同様、今のところお先真っ暗です。

 さて、この1年の後半ですが、おおざっぱに言うと、僧侶修業と横浜への長期出張でした。両方とも少々疲れました。

 僧侶修業ですが、たまたまお盆の納骨堂での読経を5日間頼まれたのがきっかけになりました。9月に入って弟経由で無礙光寺(北広島市)住職から得度して手伝ってくれないかとの話が来ました。お盆の手伝いでお経をあげることに少々自信を取り戻していたところでしたので、一応考えてからですが「よろしく」の返事をしました。それからはお寺の法要や行事にできるだけ参加、門徒相手の研修に参加、最後は得度式受式者対象の研修に参加して3月に京都・東本願寺での得度式受式となりました。その間にも装束(僧侶の着物:ころも)の購入、着方の練習、お経の練習、基礎的作法や心得、真宗の教えの勉強と結構中身の濃い時期となりました。加えて、1ランク上の僧侶資格を、教師検定というのですが、とることに密かに決心して、関連書籍の購入などを経て勉強を開始しました。したがって、この道は死ぬまで勉強となるのでしょう。
 横浜行きは、長男が病気をしたので家事応援でカミさんと愛犬を連れてフィットで行ってきました。往復の旅行も入れて1か月の出張でした。これはかなり疲れました。一番は孫と大山登りをしたことでした。残念だったのは、せっかく横浜まで出かけたのに、関東に転勤で来ている北海道の仲間に会えなかったことです。私が精神的に余裕がなかったものですから、連絡しませんでした。

 これがこの1年間の大まかな私の軌跡です。思ったより充実した1年間でした。何よりもこれからの生き方を決めることができたことが一番の収穫でした。さあ、これからの1年間は多分お寺で手一杯になるでしょう。どうも休日が忙しいことになりそうです。したがって、生活のパターンも変えなくてはならないし、体力も付けなければならない、勉強もあると、これからの中でも最もたいへんな1年になりそうです。無理をせず、でも精一杯生きていきたいと思っています。(2010.04.02)

化学分析

 しばらく私の歩んできた道をこの欄で振り返ってみたいと思います。テーマは「環境」と一応します。

 私は、大学で「化学工学」を専攻しました。ただし、私は化学は最も苦手でした。それで何で「化学工学」(?)、と思われるかもしれませんが、当時の入学試験は、全学科の定員を合計した人数だけまず入試の成績順に合格とし、あらかじめ届け出ておいた希望学科(第1希望から第8希望まで)を成績順に割り当てていったものでした。私の第1希望は機械工学、化学工学は確か第7か第8希望でした。つまり私は、ギリギリで合格したと言うことです。
このことから、しばらくの間、私は化学屋ということになってしまいました。少なくても20歳代の間は化学関係の仕事が主となりました。化学工学は、当時できたばかりの分野で、その主たるものは当時最先端の石油化学でした。私は、卒業実験でたまたま「ろ過」をやりましたが、設計などは石油の精製塔などでした。したがって、私は、大学では化学分析は教養課程での「定性分析」程度しかやったことがありません。
それが、勤めたところが「化学肥料工場」の品質管理係ですから、今考えると汗が出てきます。

 「肥料工場」の品質管理係の仕事は、主として「製品(化学肥料)」の化学分析と「肥料の農林省への登録」でした。今は、よく分かりませんが、戦後、悪質粗悪な肥料が出回ったため「肥料取締法」という法律で肥料の品質はたいへん厳しく取り締まられていました。ですから「登録」と「化学分析」はたいへん重要な仕事でした。肥料の主な化学成分はN、P、K(窒素、リン酸、カリと呼んでおり、これを肥料の三要素といいます)、そして微量成分のMg,Mn,Bなどでしたが、これを対象とする作物別に化学成分の含有量を設定し、それを最低保証するわけです。その保証値を絶対下回ってはダメなわけです。幅はないのです。でしたら、多めにすれば楽なのですが、それでは原価が高くなり、採算が取れません。そこが、品質管理係の重要な仕事なわけです。
 毎日工程検査、製品検査、場合によっては出荷前の検査などがあり、3人ほどでやってましたが、結構忙しく、NPKの分析ならスピードと正確さでは結構な腕前になりました。でも、先に述べたとおり、大学ではまったくと言っていいほど勉強していないので、入社時は1年、本社工場で先輩についてみっちり修行をしました。何せ、硫酸を希釈するのに、濃硫酸に水をかけて爆発させるほどひどい知識程度でしたから。

肥料は固形ですから(もちろん液体もありますが大部分が固体です)、化学分析をするためには前処理が必要です。例えば、全窒素(N)、全リン酸(PではなくP2O5で表しますのでリン酸といいます)、全カリ(カリウム、これはK2Oで表します)などは、王水(濃塩酸と濃硝酸を三対一の割合でまぜた液体)や濃硫酸又は濃塩酸で煮沸分解し、冷却後に一定量の水で成分を抽出します。その抽出液を分析するわけです。
 その他、リン酸やカリは抽出液により、水溶性、可溶性、ク溶性などと分かれており、同じ資料に対してそれぞれすべてを分析します。分析方法は、いろいろありますが、試料の成分や分析方法の難易、正確さ、分析機器の有無などで選んで分析していました。当然すべて定量分析であり、当時は機器による自動分析(今もあるかどうかは分かりませんが)はほとんど確立されていませんでしたから、すべて手分析でした。それも蒸留後の滴定分析、比色分析、炎光分析などなどいろいろな分析方法で行いました。
 もちろん、試薬や標準液はいわゆる手作りでした。今のように、規定液を購入して希釈して使うなどということは一切しません。粉体試薬や濃度の高い液体を購入して自分で作りました。これを、いつも一定のものが作れるようになれば一人前です。私は、化学が大嫌いだった割には、化学分析が楽しく、肥料分析法という字の小さい厚めの本と首っ引きで勉強しては、精度の高い分析をめざしたものでした。それと、意外とルーチンワーク的なことが性に合ってたのかもしれません。こうやって勉強したことが、次の公害関係の分析でとっても役に立ちました。私の環境関連業務の原点です。

化学分析にも慣れ、分析室の係長として実質の責任者になりました。その頃に公害国会[昭和45年(1970年)]があり、次のような法律が新規成立、改正成立しました。

 <新規>
  公害犯罪処罰法、公害防止事業費事業者負担法、海洋汚染防止法、水質汚濁防止法、
  農用地土壌汚染防止法、廃棄物処理法
 <改正>
  下水道法、公害対策基本法、自然公園法、騒音規制法、大気汚染防止法、道路交通法、
  毒物及び劇物取締法、農薬取締法

肥料工場は、排ガス、排水、粉塵、騒音などのすべての発生源となっており、それまではどこでもそうでしたが実質垂れ流しでした。私は、当然のようにその担当者となり、施設対策から分析、市役所や保健所の公害担当部署(市役所ではそのものずばり、公害課と称していました)との対応など仕事が大幅に増えました。事前準備として、新しくできた公害防止管理者の資格を取得しました。当初は半年ごとに試験がありましたので、第1回目で大気関係、第2回目で水質関係の1種を取得し、主任管理者として届け出ました。また、排水や排ガスなどの分析の勉強もしなければなりません。北大で北海道化学学会主催の分析講習会があり、その研修を受けたり、一番は、市の公害課に大学の先輩で私と違って優秀な方がいましたので、その方に直接教えていただいたりしました。私の会社まで出向いてくれて、手取り足取り分析を教えてくれました。今でも感謝しています。

肥料工場は、基本的に粉じんと排ガスが主体ですが、粉じんや排ガスはスクラバで水洗浄して除去しますので、結果として排水も大量に出ます。
 リン鉱石を微粉砕して濃硫酸をかけて混合・熟成させて「過リン酸石灰」というリン酸肥料を製造します。過リン酸石灰は、そのままでも肥料として使いますが、大半は複合肥料の原料として使います。

<参考>【複合肥料】
窒素・リン酸・カリの肥料の3要素のうち2つ以上をふくむ肥料。単にまぜたものを配合肥料,各種原料を化学的に結合させたものを化成肥料という。

 さて、リン鉱石に濃硫酸をかけて反応させるのですから、当然強烈な反応熱によってガスや粉じんが大量発生します。このガスや粉じんもスクラバ塔で水洗浄します。その廃液は強烈な酸性液ですが、合わせてリン鉱石に含まれているフッ素も多量に含まれています。そこで肥料工場では、排水処理の一環として、この廃液からケイフッ化ナトリウムの形でフッ素を回収して販売してました。この装置は簡単なもので、ポンプと攪拌槽だけでできます。当然バッチ式ですが、私は、これを自分で設計(?)し自分で運転しました。これで一番たいへんだったのは、苛性ソーダーの溶解で、いつも裸にビニール袋をかぶって作業をした覚えがあります。あの頃は、安全対策なんかまったく考えませんでしたので。
 苛性ソーダで中和して、食塩を混ぜるだけで真っ白な粉状のケイフッ化ナトリウムが析出してきます。これを水洗いして乾燥することにより、碍子の釉薬か何かに(詳細は忘れました)使えるようになります。この会社ではその全量を日本碍子に納入していました。自らトラックを運転して日本碍子の工場に納品に行ったこともあります。その時に、廃液から硫安(硫酸アンモニウム:窒素肥料)を作っている工場も見学できました。詳しいことは忘れてしまいましたが、このフッ素化合物の分析もフッ素の純度が必要なことから行いました。この化学嫌いが、結構いろいろやっていたのでした。

肥料工場勤務は5年弱で、この会社にはサラリーマンのサの字も知らないまま入社し、サラリーマンの一から教えていただきました。私みたいなものにも、勉強の機会を与えてくれましたし、かなり自由に仕事をさせていただきました。
 大学時代の不勉強を、この時代に取り戻したような気がします。最低必要な資格もこのときに取りました。毎日、夜中の1時くらいまで勉強して、公害防止管理者の他に、危険物やボイラーの資格もこの時でした。ボイラの性能検査の時には、自分でボイラーに潜り込んで点検・清掃して無事検査を通ったなんて、すごいこともやってのけました。もちろん、工場へ始終入り込んで、製造の勉強もしました。1年に1回定期修理があるのですが、その時は工員と一緒になって、ハンマーを振ったりサンダーがけをしたり、もちろん工場の中に貯まった粉じんの除去作業もしました。
公害国会以降は、排ガスの分析もしました。煙突に登って、サンプルを採取し、分析するのですが、よく参考書も読みましたし、先にお話しした公害課の先輩の教えをいただきながら、キチンとできるようになりました。
 全てが、その後の環境に関わるときの基礎になりました。
 また、私の現場第一の姿勢もこの時に作られたものと思います。
 私のわがままから、この会社を辞めてしまいましたが、本当に良くしていただき、感謝感謝でいっぱいです。
 肥料工場を辞めて2か月後に、下水処理場の運転・維持管理をする会社に採用されました。実は、交通渋滞で面接に遅れたのですが、待っていてくれ、即刻入社を許可されました。後で考えると、分析をやっていたこと、公害防止管理者などの国家資格を持っていたことが評価されたようです。そうして、先ずは、下水処理場の水質分析係となりました。

 新しい会社に採用されて、最初の仕事は、東京へ出かけての勉強でした。一緒に入社した同僚と二人で、親会社の工場へ派遣され、そこにある分析室や研究所で、第一に下水処理場の仕組みと水処理(活性汚泥法)の講義を受け、次に実際のサンプルを使って水の分析を、最後は研究所で顕微鏡を使って原生生物の検鏡を勉強しました。
たった3週間ですから、同僚と「頭がオーバーフローする」と言いながら、必死に勉強しました。親会社の先生たちも、仕事の合間を縫って、我々二人だけのために、交替で相手をしてくださり、感謝感謝でした。この時にいただいた、勉強のためのテキスト(資料)はその後長い間、私たちの仕事に活用させていただきました。また、先生をしてくださった方たちとも、長くおつきあいをいただきました。
さて、研修を終わり帰ってからは、すぐに現場でした。ちょうど試運転の時であり、本来は分析器具の設置、立ち上げが仕事なのですが、まだ納品されていないため、勉強がてら試運転の手伝いでした。おれは、こんな仕事で雇われたんじゃないと同僚と文句を言いながら、現場掃除から始めました。あまりに広くて本当にイヤになりましたが、後で考えるとそのおかげで現場をしっかり覚えることができ、運転管理や水質管理の仕事に本当に役立ちました。
また、機器の運転についても、自動運転、連動運転、手動運転を一人ひとりに実際に操作させて訓練してくれました。手動運転の時は、現場を走り回って起動したものです。これも、あとで本当に役立ちました。毎日毎日が新しい体験ばかりで、毎日が楽しく過ごせたものでした。そのうちに、分析機器が納まり、ようやく水質分析の仕事が始まりました。

 1968年(昭和48年)ですから、下水処理場の民間委託はまだまだ草創期ですし、珍しい仕事でした。私たちが担当した仕事は、下水処理場のうち水処理部分(汚泥処理施設は未完成で、汚泥は濃縮して他の施設へ運搬しました)の、今でいう包括契約による委託管理でした。
 正確なことは忘れましたが、現場配置人数は、客先(市職員)は場長を入れて6名、我々民間側(受託者)は15名か17名くらいだったと思います。そのうち2名が、我々水質分析係です。水質分析の仕事に始めから2名も配置されたのは、包括契約による委託費が一部出来高払いになっていたからでした。つまり、人件費などの固定的経費は、処理した水量に関係なく固定した金額で契約されましたが、電気代とか薬品代とかオイル代、修理代などは処理固形物量(水量ではない)1トンあたりいくらという契約でした。これも詳細は忘れてしまったのですが、BODとSSの分析値と処理水量から一定の計算式で固形物量を算出し、それにトンあたり単価を掛けて受託費を算出するというものでした。ですから、水質分析値は取引に関わる重要な数値ですので、始めからこのような体制になったのだと思います。日常分析(といってもBOD,SSまで分析しました。)は午前、午後と1日2回行いました。その他、精密分析と中間分析がそれぞれに月2回、24時間分析(通日分析、2時間ごとにサンプリング、混合せずその都度分析)が2か月に一度の割合で行いました。結構忙しい毎日でした。24時間分析はたいへんつらいものでしたが、超過勤務手当がごっそりと入るので楽しみでもありました。忙しかった割には、日常はほとんど超過勤務はありませんでしたので。

 下水の分析項目や分析方法は、現在とほとんど変わらないと思います(最近全くタッチしていないので詳しいことは分かりません)。前の勤務先ではほとんど毎日分析していた窒素やリン酸、カリのうち窒素を月に2回ほどやるだけですから、分析の内容はすっかり変わってしまいました。やはり、一番苦労したのはBODでした。当初は水がきれいなものですから、希釈の程度が分からなく、一つの検体に3〜4種類の希釈倍率で分析し、ブランクも必ず仕込みました。
 なお、これは前回にお話ししましたように、取引に使われる項目ですから、月に1度、客先の分析室と同じサンプルで手合わせをしました。その結果に一定以上の差があるときのルールも決められていました。詳細は忘れましたが、客先数値を基準にするような取り決めだったと思います。当然、BODは差が出たと記憶しています。
 BODで気を遣ったのは希釈倍率とフランビン(DOビン)の洗浄でした。フランビンに洗剤や有機物が付着しているとすぐに誤差が出ます。徹底して洗ったものです。一番よかったのが希塩酸で洗浄後水洗い、最後に蒸留水で仕上げる方法だったと思います。
 何をやっても新しいことばかりで、短い期間でしたが、とっても楽しい仕事でした。分析は日曜、祝日は行わなかったと思います。確かな記憶ではありませんが。従って、この時も、これ以降も、私は交替勤務に入ったことはありませんでした。夜間勤務は24時間分析の時と、緊急時の呼び出しの時だけでした。でも、運転操作は、ほぼ完璧に(電気盤の操作を除き)できました。同僚は、代番で夜勤にはいることはあったのですが、どういうわけは私は夜勤の記憶がありませんので、多分やっていないと思います。

 私どもが下水処理場の運転・維持管理を担当していたときの客先の場長は、カメラと生物に(もっとあったのでしょうが、私にはその二つだけに、そう感じたのです)すごい詳しい方でした。水質分析係の仕事に、活性汚泥の生物(原生動物)検鏡がありました。多分、中間及び精密検査の項目だったと思います。分析結果報告書に、その原生動物検査結果も当然載せました。
私どもは、その報告書に原生動物の名称を例えば「ボルティケラ」とカタカナで記載しました。ところが、場長はこれは学名だから原語で、つまりラテン語で書きなさいというのです。それからが、しばらく大変でした。ツリガネムシはボルティケラではなく「Vorticella」と書かなくてはならないのです。
 先にお話ししたように、私どもの検鏡は促成栽培です。学名だか日本名だか、通称だか全く分からないのです。仕方なく、場長に教えを請いながら仕事をしたものです。おかげで少し形の良い報告書が書けるようになりました。カメラについては、私はその頃一眼レフなんて触ったことがなかったのですが、同僚と資格試験用の写真をいわゆるバカチョンカメラで撮ろうとしていたら、これで撮ると背景がぼけて良い写真が撮れるよと立派な一眼レフを貸してくれました。残念ながら、操作方法が分かりません。結果はバカチョンカメラと同じでした。当然怒られました。しかし、顕微鏡写真の取り方など教えてもらい、また一ランク成長しました。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

アメーバ Amoeba 肉質虫類アメーバ目アメーバ科
アルケラ Arcella ナベカムリ 肉質虫類アルケラ目アルケラ科
ケントロピキシス Centropyxis トゲフセツボカヌリ 肉質虫類アルケラ目ディフルギア科
トリネマ Trinema 肉質虫類グロミア目ユーグリファ科
アクチノフィリス Actinophrys タイヨウチュウ 肉質虫類太陽虫目アクチノフィリス科
アスピディスカ Aspidisca メンガタミズケムシ 繊毛虫類下毛目アスピディスカ科
ボルティケラ Vorticella ツリガネムシ 繊毛虫類縁毛目ボルティケラ科
エピスティリス Epistylis 繊毛虫類縁毛目エピスティリス科
カルケシウム Carchesium エダワカレツリガネムシ 繊毛虫類縁毛目ボルティケラ科
キロドネラ Chilodonella 繊毛虫類キルトホラ目キロドネラ科
スピロストムム Spirostomum ネジレクチミズケムシ 繊毛虫類異毛目スピロストムム科
トラケロフィルム Trachelophyllum 繊毛虫類原口目ホリフィリア科
バギニコラ Vaginicola 繊毛虫類縁毛目バギニコラ科
ブレファリスマ Blepharisma 繊毛虫類異毛目ブレファリスマ科
リトノツス Litonotus 繊毛虫類側口目アンフィレプツス科
トコフィリア Tokophrya 繊毛虫類吸管虫目アキネタ科
ユープロテス Euplotes 繊毛虫類下毛目ユープロテス科

 これは、東京都下水道局のホームページに載っている原生動物の種類です。
順に、名称(カタカナ読み、ラテン語)、和名、分類です。和名のないものもあります。名称の読みは、死んだ原語であるラテン語をカタカナで表記したものですから、正解はありません。例えば、「ボルティケラ」は私たちは「ボルティセラ」と呼んでいました。私たちの親会社の先生は、どう読んでも良いとおっしゃっていましたので、私たちは今でも「ボルティセラ」です。

 ところで、BOD(生物化学的酸素要求量)の分析は、ご存じのとおり、DO(溶存酸素量)の5日間における消費量から算出するものです。ですから、諸々の前準備、前処理、注意事項は別として、分析としては溶存酸素の測定となります。
 私たちの場合は、先にお話ししたとおり、BODは管理上の分析項目としてだけではなく取引上の項目としてたいへん重要なものでしたので、1日2回、24時間試験の時は2時間ごとに12回、COD(化学的酸素要求量)を事前に分析して、その結果からBOD値を推測して希釈する、そして最初のDO、5日後のDOを測定しました。かなりの検体数であり、負担でした。
 DOの分析は、ウインクラー・アジ化ナトリウム変法という方法で、要するに「滴定法」です。最初はこれで一生懸命やってましたが、全件数を取引に使うわけではありませんので、だんだん楽な方法を考えるようになりました。要するにDOメーターによる方法(隔膜電極法)です。しばらく、手分析とDOメーターでその測定値にどれくらいの差があるかをデータ取りし、よし!いけそうだと判断してから、取引以外はこの方法に変えました。なお、この方法は各種阻害物質の対策をする必要がないので、そういう意味でも楽でした。
 このようにして後半は、大変楽にBODの分析をすることができました。DOメーターの取扱いも習熟しました。どうも、分析だけが仕事ということになると、その測定技能や測定結果に大変な厳密さを要求するようになります。分析屋のプライドでしょうか。でも、私の場合は、水質を測定して、それを下水処理、つまり水質管理に役立たせるための分析ですから、いわゆる分析屋にはならずに済みました。その分析の目的を理解して、手抜きのできるものはそれなりに、そうでないもの(規制にかかわる分析、取引にかかわる分析など)は準備から厳密に、と使い分けができるようになりました。そういう意味では、前職の品質管理、品質保証としての分析業務とは全く違う業務といって良いと思います。

大腸菌群数の測定にはご存じのとおり、シャーレを使います。私がこの測定を行っている頃は、シャーレはガラス製で、数十枚用意したものを、使用の都度洗浄して繰り返し使っていました。これも、BOD用のフランビン同様洗浄には大変気を遣いました。今ではどのようにして洗ったか忘れてしまいましたが、熱湯をかけたり、高温の乾燥機で乾燥したと思います。どうしても、洗いそこないがあるなどのことから、ブランクテストもした覚えがあります。
今では、シャーレはすべて使い捨てとなり、すっかり楽になりましたが、私がやっている頃は、けっこう大変な作業でした。
このように、化学分析では、ガラス器具の洗浄や測定器の調整、試薬の調製など、その準備にあたる作業が非常に重要であり、勝負(精度)の決め手になるものです。私が分析を離れてから、現場周りをすると必ず分析室を覗いたものですが、ガラス器具の洗浄が大変気になりました。やはり、キチンと洗ってない、保管状態が良くない(ほこりが入るような状態)など、その都度指導したものでした。試薬はほとんど調製済みのものを購入しているので、問題はありませんでした。
もう一つ、分析で重要なのはサンプリングです。何千、何万トンの水を代表する試料を採取するわけですから、当然気を遣わなければなりません。エアレーションタンク(曝気槽)の混合液なら常にエアレーションして攪拌していますから、バケツを投げて採取してもほとんど問題ありませんが、特に流入する下水は、サンプリングする時間、場所、採取する深さなどなど、気を遣ったものでした。24時間試験で時間等を設定し、場所や水深は何カ所かの候補地でいろいろな方法でサンプリングして最も代表していると思われるところを決めたものでした。この頃は、すべてにおいて初めてでしたので、試行錯誤を繰り返し、先輩の指導を得、おかげでたくさんの知見を得ることができました。これらはすべて、その後の仕事に活きてきたことはいうまでもありません。
さて、長々と私の化学分析の初歩を書いてみました。大学では化学工学専攻ながら全くのダメ学生でほとんど化学分析の知識はゼロでしたが、勤めてからは、どちらの会社も社員の能力向上にお金をかけてくれたおかげで、ほぼ一人前の分析屋となることができました。
 楽しく仕事をしていたのですが、残念ながら下水処理場の仕事は、たった1年9か月で終了となりました。しかし、私は幸いにも「次の機会まで出稼ぎをしてこい」ということで、神奈川県川崎市にある同じ系列の会社に出向となりました。1975年7月末のちょうど梅雨明けの日に家族で川崎市へ赴任し、翌日出向先の上司に連れられて1棟6戸建ての木造アパートの2階の端、西日がジンジンと当たる部屋に引っ越しました。4畳半と6畳間に玄関兼台所、そしてトイレと風呂という小さいところでした。ここでの初体験はムカデの攻撃でした。荷物が入る前にとたった一つの押し入れを掃除していたら、背中に固いものがどっと落ちてきたので手で捕まえたところ、十数センチもある大きなムカデでした。あの固い感触は今でも忘れられません。ここで、初めて我が家に電話を設置しました。懐かしい黒のダイアル式電話機です。住んだところは川崎市多摩区で小田急電車の新百合ヶ丘駅から歩いて10分弱くらいでした。今、新百合ヶ丘はテレビ等で宣伝もされ、有名な街になりましたが、私が行った頃は開発が始まったばかりで、新百合ヶ丘の駅も新しく、周辺はまだ畑がたくさんあったことを覚えています。2001年に横浜に住むことになった際に、1度たずねてみましたが、昔の面影は全くない、おしゃれな街になっていました。なお、私が住んだあたりは、アパートなどはほとんど無く戸建てばかりで、つまり高級住宅街だということを後で知りました。長男がここで幼稚園に入ったのですが、そこでできた友達のお宅へ招待されていったのですが、豪邸で外車があり、ごちそうになったお酒も洋酒(ジョニ黒?)で、驚いて帰ったものでした。なお、長男の友達の両親は私よりかなり年上で、このあたりの人は、まず家を建てるためにしっかり働いて、家を手に入れてから子供を作るというのが一般的だと聞き、びっくりしたものでした。その頃の私は、マイホームを持つなど考えてもいませんでしたから。

 さっぱり、化学分析の話は出てきませんので表題を変えたいところですが、その新しい表題も頭に浮かびませんのでこのままでいきます。
 さて、川崎への引越も終わり、扇風機を購入して暑さ対策もできたので、新しい勤務先に出勤しました。(また蛇足ですが、この夏は私たちが赴任した日から50日だか60日、つまり9月の下旬まで真夏日が続いた異常に熱い夏でした。私は、出勤1週間ほどで暑さに負けて寝込んでしまいました。しかし、子供たちって適応力が高いというか、へいちゃらなんですね。がんがんと照る太陽の下、昔から住んでいるような顔をして走り回っていました。)
 新しい勤務先は、浄水場の汚泥処理工場でした。浄水場は1日に100万立方メートルも水を作れる大規模なもので、汚泥処理工場も毎日運転でした。ただ、晴天が続くとほとんど汚泥が発生しないので、昼間だけ少しの機械で処理をします。しかし、台風など大雨の後はたいへんです。濃縮槽や貯留槽は1日で満杯になり、汚泥処理工場の運転も一転して全系列24時間運転となり、交替勤務に変更になります。
 処理設備は、デハイドラムと呼ばれる造粒脱水機とロータリキルン式の乾燥機からなっており、大処理用の設備でした。この設備は、4系列ありました。脱水助剤には、高分子凝集剤を使い、ある程度攪拌造粒した汚泥をドラムの回転により重力脱水した後、直火式のロータリーキルンへ投入、乾燥するものです。私は、ドラム式の造粒機とロータリーキルン式の乾燥機は肥料工場で経験しており、それほど驚きはしなかったのですが、高分子凝集剤は初めてでしたので、これの溶解はこの後たいへん参考になりました。ご存じのとおり、高分子凝集剤はその溶解がたいへんで、ミスるとすぐに団子ができてしまいます。ここの施設は自動溶解でしたので、それほど苦労はなかったと思いますが。

 最初に勤務した汚泥処理工場は1か月ほどの勤務でした。その後、新しくできた同じ方式の汚泥処理工場の試運転に派遣されました。ここは、脱水乾燥設備が2系列の中規模の工場でした。メーカーの設計屋の指揮の下、一応経験者として仕事をしました。正直言って、それほど難しいものではなく、気楽で楽しい試運転でした。この工場はついこの間まで動いていたようです。
 ここで覚えているのは、造粒過程が樋式なので目に見えるため、またこれがこの機械の命なため、いつもそこばかり眺めていたこと、操作室は2階でポンプが地下3階だったため、トラブルが起きるとこの間を1日に何回も階段で上り下りしたこと、脱水した汚泥(脱水ケーキ)や乾燥汚泥を近くの捨て場までダンプトラックで運搬するのですが、誰も怖がって運転しないので、もっぱら私が運転手をしたこと(これが一番楽しかった!)などです。試運転は本当に楽しかったので、今でも機会があったらやってみたいと思っています。
 試運転ですから、ここも2か月くらいだったと思います。次も試運転に回されました。この試運転が、引き続いてメーカーに運転委託されたので、結局出向先での最後の勤務先となりましたが、私にとって水処理の基礎となる、当時では最高の技術を勉強させてもらった勤務先でした。
 3カ所目の勤務先は、新しくできたばかりの大学院大学の排水処理施設でした。処理対象は通常の下水に相当する「生活排水」と研究所から出る「研究排水」です。また、処理した水は再利用する、いわゆる「中水」を作る工程もありました。私はここで当初は一人で(設計屋は時々通ってくるだけ)、後日運転委託を前提として二人になりましたが、試運転の大半を実施しました。またここは、大学院なため、当然研究の対象ともされており、この運転のための(研究のための)大学内の「委員会」が組織され、当然私も担当者として事務局的に参加することとなり、月1回、その会合に出席するために本学まで通いました。また現場は、学生の研修の場としても使われ、何度も先生に頼まれて、代わって学生に講義(現場説明ですが)もしました。

 「生活排水」、つまり「下水」は生物学的脱窒素処理を採用していました。もちろん、私には初めてのシステムです。メーカーもし尿で実績があるだけで、いわゆる排水処理では初めてとのことでした。
 設備の配置は、脱窒槽(無酸素)-硝化槽(好気)-二次脱窒槽(無酸素)-再曝気槽(好気)-沈殿槽でした。ようやく各水槽も満杯になり、汚水も徐々に入り始めましたので、正規の運転を始めたのですが、脱窒槽が嫌気状態にならないのです。始めは汚水の濃度が低いためと思いノホホンとしていたのですが、半年たっても酸素があるのです。これにはまいりました。メーカーの技術屋も原因が解らなく、いろいろ調査しました。最後に、工事会社に来てもらい、水槽の水を少し抜いてマンホールから中を覗いてもらいました。
 なんと!、脱窒槽と隣の硝化槽との間の壁に穴が空いていて、硝化槽から空気がどんどん脱窒槽へ入り込んでいるのです。工事の時に配管用の穴があり、配管終了後密封することに気がつかなかったようです。笑うしかなかったのですが、みんながこの新しいシステムを理解しないで工事をしたことがその原因でした。結局、私がいる間に脱窒処理は軌道に乗りませんでした。脱窒以外はもちろん処理できましたが。この施設には、小さいながらも立派な水質試験室がありました。分析機器もガラス器具などもすべて揃っていましたので、これをセットし、実際に分析することも私の仕事でした。大学の施設ですから、予算もたっぷりで本当に立派なものでした。しかし、何せ一人ですから、大忙しです。でも、この分析室はエアコンがついていまして、暑いときの避難所としては大変お世話になりました。また、後でも出てくると思いますが、真夏の汚泥焼却は地獄の作業でしたので、本当に助かりました。

 「研究排水」は、分析室や実験室から出る排水です。ですから、見た目はほとんど上水同様です。もちろん廃酸廃アルカリ廃有機溶剤などは別途ポリタンクなどで運び込まれるのでほとんど混入していません。別途運び込まれた廃液類は保管だけが私の仕事で、ある程度まとまると大学院の担当者が処分を専門会社へ手配をしてくれました。
 そのため、研究排水は中和処理だけした後、生物処理の終わった生活排水と併せて、凝集沈殿処理、接触酸化処理(生物膜)の工程へ移ります。中和処理は私がいた頃は排水そのものがきれいでしたので、ほとんど使われずそのまま凝集沈殿処理へ廻しました。凝集沈殿用の凝集剤は、忘れてしまったのですが硫酸バンドかPACかのどちらかだったと思います。ここで、ほとんど処理は完了してしまうので、次の接触酸化処理は生物膜がまったくできず、ただ通しているだけになりました。
 さて、その後処理された水は、砂ろ過、活性炭接触処理へ移ります。ここで、活性炭にはひどい目にあいました。なんにも考えずに、水を通したら、水が真っ黒になって出てきたのです。実は、この処理の後に、「中水槽」というプールのでかいのがあるのですが、このプールの水が真っ黒になってしまいました。活性炭がまったく洗浄されていない、粉末の混じった今では考えられない状態のものだったのです。真っ黒なプールって想像できますか? 私は真っ青になってしまいました。もちろん中水として、リサイクルすることはできませんし、外へ排出することもできません。それからは、しばらく砂ろ過後の水を直接排出し、先ずは活性炭の洗浄をしました。詳細は忘れましたが、逆洗を繰り返し実行してきれいになったのを見極めて、プールから水中ポンプで真っ黒な水を戻して凝集沈殿、活性炭接触で洗浄したと記憶しています。確か、きれいな中水槽に戻すので1か月以上かかったと記憶しています。

 大学院大学排水処理施設の試運転は、初冬から始まり翌年3月末まで続きました。4月からは、メーカーに委託になり、私は引き続き受託会社の従業員となってその運転に従事しました。また、4月からは相棒(別の会社でコミプラの運転をしていた大先輩でした)ができ、二人勤務となりました。生物学的脱窒素処理以外は、水が少ないこともあり、順調な運転でした。
 仕事の中で、一番たいへんだったのは、汚泥焼却です。この施設には、バッチ式の汚泥焼却炉があり、1週間に一度くらいの割で1日がかりで焼却しました。脱水汚泥(脱水機は遠心方式)をドラム缶に貯めておき、これを一つか二つ分をまとめて焼却するのですが、焼却炉はダルマストーブみたいなもので、頂部から落とし込んだ汚泥を灯油バーナーで燃やすのですが、焼却炉には攪拌装置がありませんのでほっておいてはいつまでも燃えません。それで、前部から長い長いレーキで攪拌をしてやらなくてはなりません。これが、とてつもなく熱くて、とんでもない作業でした。あの熱さは今でも忘れません。でも、焼き上がった汚泥(灰)は、とっても状態が良くて、構内の未舗装部分に都度敷いていきました。これがどんどん広がっていくのが楽しくて、一生懸命焼却したものでした。焼却灰は水はけが良いんです。
 順調になってから、力を入れたのは水質分析でした。ただ、これに専念はできませんので、大学の担当にお願いして、窒素関係は簡易キットを、BODはDOメーターでと正確さよりも傾向の分かる程度の分析に終始しました。従って、すっかり腕が落ちてしまい、これ以降正式に化学分析を担当したことはありません。
 この施設を担当して私は水処理の運転に自信を持ちました。この施設は小さいながらも、当時の最先端の水処理方式が網羅されていましたので。そして、この経験は、30年間古くならず活用できました。
化学分析の話を主体にと思って書き始めたこの思い出話ですが、結局恥さらしの話になってしまいましたので、この辺で終わります。長い間おつきあいいただきありがとうございました。なお、川崎在住はたったの1年間で、札幌へ呼び戻されました。川崎でお世話になった会社の社長が「北海道へ帰っても仕事はないから、川崎に居着かないか」と誘ってくださいましたが、北海道に帰りたい一心で丁重にお断りしたことを今でも懐かしく思い出します。結果として、帰って良かったのですが。(終)

42年ぶり

 昨夕(10月1日夕)、大学寮の同じ部屋で3年間、ともに起居した大学の先輩たちと42年ぶりに再会しました。私を含めて7人集まったのですが、私以外の6人は1学年先輩ですから、皆さん65.66才です。まだまだお元気で、ほとんどの方は引退されていますが、それぞれに第二の人生を謳歌されていました。さっそく名前(性ではなく)で呼ばれて大学時代そのままの会話となりました。露天風呂を7人で占拠して30分も40分も昔話をしてしまい、私などはついて行けなく、のぼせ上がる寸前でした。
でも、宴会は1時間半でお開き、部屋での二次会も7人で焼酎の4合ビンをやっと空ける程度、おまけに9時になったら寝ると言い出す始末、皆さんやっぱり十分なお年寄りでした。この集まり、本当は、先輩たちの東京における仲良し組なのですが、全員が北海道出身で東京方面に住み着いた人たちなので、引退して自由になったから懐かしい北海道へ旅行をしようと言うことになり、北海道には連絡の取れる後輩がいるから誘おうと言うことになったようです。
私にとっては、本当にうれしい誘いで、即刻乗ってしまいました。6人の先輩の内、2人が同部屋で3年間暮らした方なのですが、やっぱり寝る前たった30分でしたが、42年間の報告をしあいました。
場所は、定山渓温泉の「鹿の湯」というホテル、ほとんどの方が久しぶりの定山渓と言うことでした。因みに昨日は、大学を訪ねてきたそうです。もう、ともに寝起きした寮は跡形もなく、皆さんの感慨は深かったようです。今朝は、ゴルフ組と親戚行き組に分かれるので、記念の集合写真を撮り、再会を期して別れました。私は、久しぶりの一番の若手、下っ端で、これも学生気分を味わって楽しい一夜でした。(2009.10.2)